マタイ福音書によれば、ほとんどの人が気がつかなかったにもかかわらず、東から来た博士たちだけが、真の王なる神のひとり子、イエス・キリストの誕生を知ってはるばるやって来た、とあります。この博士たちですが、彼らはマギと言われる人たちで、ペルシャ帝国の一部のメディアというところに存在していました。彼らの地位は、ユダヤにおける祭司と同様です。彼らは、星を占うことをしていました。彼らがイエスを拝んだ、ということは、救いがユダヤ民族だけでなく異邦人にも、民族を越えて全世界に広げられたということを意味します。
考えてみれば、エルサレム神殿の祭司たち、いわばイエス様に一番近いと見られる彼らが、イエス様の誕生に気がつかず、遠くの異邦の博士たちが神の子イエス様の誕生を知ったということは、皮肉な話ではないでしょうか。
今夜、ここでみなさんと考えてみたいのは博士たちの贈り物です。博士たちは、11節を見ると「黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。この三つの贈り物は、幼な子イエス様がどのようなお方かを示しているのです。
@ 最初の黄金、これは王への贈り物を意味します。黄金は金属の王です。
当時、ユダヤの王であったヘロデは、自分の地位、富、権力を守るためには、自分の妻も息子も殺しました。彼は徹底的に自己中心的に生き、70才近くまで生きて、ローマ皇帝が5人代わる間40年近く王で有り続けました。しかし、イエス様は隣人への愛と神様への愛を中心に生きそして30才と少しで死にました。イエス様の公的な生涯は、およそ3年です。二人は全く対称的な王でした。イエス様は、権力ではなく愛によって、十字架から人々の心を動かす王でありました。
A 乳香は祭司への贈り物です。芳しい乳香は、神殿に於いて、礼拝と犠牲が献げられる時に用いられました。
祭司の務めは仲立ちです。祭司のラテン語「ポンティフェクス」(橋を架ける人)という言葉が示すように、人が神の元へ行く道を開くことでした。祭司たちは、礼拝の犠牲の供え物として動物を献げました。しかし、イエス様は犠牲の供え物としてご自分の命を捧げられたのです。ここに、人間の祭司とイエス様との本質的な違いがあります。
B 没薬、これは死者への贈り物です。没薬は、胃の薬でもありますが、防腐剤でもあり、死体に塗るために使われました。つまり、イエス様は死ぬために、十字架に架かるためにこの世に来られたのです。事実、イエス様が死なれた時、没薬が用意され、あま布で覆われました。
聖書の、私たちが何気なく読み過ぎていってしまうような、一つの言葉や単語の中にも、実に重要な意味や真理が込められているのです。
このマタイ伝2章の誕生物語の中に、既にイエス様の十字架の死が暗示されています。あの飼い葉桶の貧しさ、低さは十字架とつながっています。飼い葉桶は十字架への出発点なのです。そのことを考えると、楽しいだけのクリスマス、もらうだけのクリスマス、賑やかさ、華やかさは、本当のクリスマスとはかけ離れたところにあります。
〔クリスマスプレゼントについて〕
ところで、クリスマスというと、まずクリスマスプレゼントを考える人も多いと思います。今夜もある家庭では親から子へ、子から親へ、また恋人同士で、そしてサンタさんからクリスマスプレゼントをもらうこどもたちも多いことでしょう。確かにプレゼントをもらうことは嬉しいことです。しかし、聖書の中の最初のクリスマスに登場する人々は、もらう喜びだけでなく、献げる喜び、与える喜びにあずかりました。
今、お話しした博士たちも、その一番大切なものを幼な子イエス様に出会った喜びの中で献げたのです。そして、考えてみるならば、マリヤもヨセフも神のひとり子、イエス・キリストの母となり、父となって、その人生をイエス様のために献げたのでした。
世界最大のクリスマスプレゼント、それは世界最初のクリスマスプレゼントでもあります。それは、御子イエス・キリストご自身であります。贈り主は神様、贈り先は全世界の全ての人間です。私たちは、既に最も大きなプレゼントを頂いているのです。だから、メリークリスマスなのです。私たちはともすれば、その最初のプレゼントを頂いていることに気がつかず、もらうことばかり考えてしまうのです。
〔十字架のごめんなさい〕
イエス・キリストは、王の中の王でありますが、この世の王、あのヘロデとは全く違った王でありました。飼い葉桶の低さ、貧しさの中に生まれ、人々を愛し、仕えるという仕方で人々の心を動かしたのです。そして、最後には神様と人々への愛を完結するために十字架に架かり、命を捨て、命を献げられました。それは、私たち人間を罪と滅びから救うために私たちの身代わりとなられたのです。私たちの代わりに神様にごめんなさい、と命を献げてあやまって下さったのです。このことを知る時、私たちは神様への悔い改めと感謝の中で、受ける喜びから献げる喜び、与える喜びへと変えられるのです。
〔この世界の有様〕
一人一人の人間においても、国や民族という大きな形においても、まず自分、自分の家族、自分の会社、自分の国、自分の民族という思いで自己中心的になり、周りの人々や周りの国や民族を邪魔にし押しのけ命すら奪っています。そのような中にあってイエス・キリストは、自らの命を持って、真の幸せ、平和は、自己中心的に得ること、受けることの中にあるのではなく、与えること、献げることの中にあることを示されました。
〔他の道を通って〕
マタイ2:12に「『ヘロデの所に帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった。」とあります。ヘロデの所へ帰らず、別の道を、それは地理的、物理的な意味だけでなく、私たちの人生の歩む道、生きる道を示す言葉だと思うのです。
ヘロデの道、それは自己中心の道です。自分の地位、権力、富を守るためには何でもするという道。彼は自分が死んでも誰一人悲しむ者はいないことを知っていました。自己中心、自分の幸せがまず第一というエゴの道は滅びの道です。他者だけでなく、自分をも人間として滅ぼしてしまうのです。
一方、イエス様の道は愛と平和の道です。神様の愛を受け、そして与える道です。神のみ旨を求め、自分の幸せと同時に隣り人、隣の国の幸せも求め、与えていく道です。そして、そのような道を歩む者にクリスマスの本当の喜びが与えられるのです。私たちは、ヘロデの道ではなく、イエス様の道、信仰、愛、平和の道を歩んで行きたいと願っています。
2007年12月24日説教より