「疑いから信仰へ」
                                            牧師 亀井 周二

「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージB」

<渡邊禎雄氏の版画について>

野田教会には礼拝堂、廊下、玄関、牧師室などに渡邊禎雄氏の版画が飾ってあり、教会の暦に合わせて作品が変わっていきます。これは牧師の私、亀井周二が個人的に収集した作品ですが、私個人だけでなく、教会員また教会に来られる皆さんに鑑賞して頂きたいと思って飾ってあります。

 これから、このホームページを通して教会で飾ったことのある渡邊禎雄氏の版画を紹介しながら、その版画の背後にある作者、渡邊氏の信仰又、聖書のメッセージについて分かりやすくお話ししたいと思っています。



「渡邊禎雄氏の版画による聖書メッセージB」

「疑いから信仰へ」                               牧師 亀井 周二

 
<聖書>
 ヨハネによる福音書 20章 24〜29節 
 24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 十字架の後、弟子たちは自分たちも逮捕されるかと「家の戸に鍵をかけて」恐れていました。そんな彼らに、イエス様の方から近寄り「平和があるように」と言われます。ここでイエス様は彼らの失敗、逃亡を批判しておられません。この平和の言葉の中には、赦しと励ましがあります。さらにイエス様は「聖霊を受けなさい。罪は赦される。」と言われます。信仰は私たちの思い、情熱の業ではなく、神様の愛と力の業です。

 この復活したイエス様と弟子たちの喜びの場面にトマスはいませんでした。トマスは一つの過ちを犯しています。それは、彼が弟子たちの交わりから身を引いたことです。彼は「共に」いることよりも、一人でいることを望みました。そして、復活のイエス様と出会うチャンスを逃したのです。一人では起こらないことが、教会の交わりの中では起こります。

 しかし、そのようなトマスにイエス様の方から近づかれます。復活されたイエス様と出会った弟子たちが「私たちは主を見た。」と言うと、トマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ・・・、わたしは決して信じない。」トマスは二つの優れた資質を持っていました。トマスは、信じてもいないのに信じている、等とは決して言いません。分かってもいないのに、分かったふりはしませんでした。その意味で、彼は自分に対して誠実でした。

 私たちは、よく分かってもいないのに、見栄や世間体を気にして分かったふりをします。心から信じてもいないのに、信じたふりをします。テニスンは「生かじりの信条(信仰告白)よりも、誠実な懐疑の方にこそ、真実な信仰は生きている。」と言っています。

 トマスのもう一つの素晴らしさは、ひとたび確信すると、とことん先に進むことです。トマスは「わたしの主、わたしの神よ!」と叫びました。トマスの懐疑は本当に信じたいための懐疑であって、ひとたびそれが確信に至った時、その確信に身を任せる潔さを持っていました。「わたしの主、わたしの神よ!」これは、最高の信仰告白です。しかも、この最高の迫力ある信仰告白が、疑い深く、理詰めの人間、ある意味で最もイエス様から遠く離れていた人間の口から発せられているところに私たちは大きな驚きを感じます。

 イエス様はトマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。・・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 ここでイエス様は、トマスに対して「わたしにさわりなさい。」と言われています。ところが、今日の聖書の少し前の、マグダラのマリアと復活のイエス様との出会いを見ますとイエス様は「わたしにさわってはいけない。」と言われています。これは矛盾でしょうか。違います。マリアは、イエス様が復活されたことを信じることが出来ました。しかし、マリアの信じていたのは、手でさわることの出来るイエス様で、彼女が復活をもっぱら肉体的なものと捉えていたので、イエス様はいや、それは違う。「わたしにさわってはいけない。」と言われたのです。

 そして逆に、今、信じることを躊躇しているトマスに対しては「さわってみなさい。わたしだけでなく、わたしの傷にもさわってみなさい。」と言われるのです。愛は画一化、公式化されず、具体的状態によって表し方は異なります。クリスマスの時と同じです。羊飼いには天使が、博士たちには星が導き手でした。この復活のイエス様の二人に対する違った言葉は、二人に対する全く同じ愛から、恵みから出ている言葉です。

 つまり、イエス様が心から望んでおられることは27節の「見ないのに信じる人は、幸いである。」の言葉です。本来「信じる」と言うことは、見たり証拠を示されて起こるものではありません。夫婦間において「あなた、私を愛しているなら証拠を見せてよ!」という言葉が出る時には、両者の愛と信頼にはひびが入っていると考えられます。イエス様を十字架につけた群集たちは「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやる」と証拠を求めました。証拠、しるしを求めるところに真の信仰と愛はありません。

 アブラハムは行き先を知らないで全てを捨て、神様の言葉だけを信じて旅立ちました。
 老いた僕を助けて欲しいと、イエス様の前にひざまずいた異邦人の百人隊長は「ただお言葉を下さい。そうしたら僕は助かります。」と告白しました。

 真実の愛に生きようとする夫婦、恋人たちの間では「あなたの言葉を信じます。」「その言葉だけで十分です。」という言葉が交わされます。

 ペトロの手紙T1章8節に「あなた方はキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉で言いつくせない素晴らしい喜びに満ちあふれている。」という美しい言葉があります。イエス様と一緒に生活したペトロが、肉眼で一度もイエス様を見たことのないクリスチャンたちの信仰を見て喜び、驚いているのです。


 復活のイエス様に出会ったトマスに戻りますが、この後、聖書には具体的には何も書いてありません。これは全く私の想像でしかないのですが、イエス様に「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われた時、トマスは実際に手を伸ばして触ったでしょうか。私は思います。最初はイエス様に言われて手を伸ばしかけ、でもその手を引っ込めて触らなかったのではないでしょうか。そうに違いない、と私は思います。このイエス様の声の中で、彼は証拠を求める信仰から、触らずして、見ずして信じる、真の信仰へと変えられたのではないでしょうか。

 私たちの生きている世界は、あまりにも証拠を求める世界です。そして、そこには「信じる」という世界、信仰と愛の喪失を感じます。そのような中で、私たちは神の独り子イエス・キリストの命をかけた真実な言葉、どんな深い罪をも赦す十字架の愛、死と絶望から私たちを救う復活の力を信じて生きて行きたいと思います。