「心の富んでいる人は不幸である」

                                            牧師 亀井 周二

 ルカによる福音書 18章 9〜14節 

9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
11
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不 正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝し  ます。
12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐  れんでください。』
14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者  は低くされ、へりくだる者は高められる。
 回はマタイ53節の「心の貧しい人々は幸いである」についてお話ししましたが、今回はそのパートUです。前回と反対側の視点「富む」ことについて、考えて行きたいと思います。
「心の貧しい人々は幸いである」となれば逆もまた真なりで「心の富んでいる人々は不幸である」ということになります。この場合も、前回同様に「富める者」と「心の富める者」の関連について、まずお話したいと思います。つまり、目で見える富める者が即、不幸と言うわけではありません。富める者にも二つのタイプがあるように思います。
 よく「金持ちほどケチ」と言われます。目で見える金で人の心も動かせると考え、物質的な豊かさの中で、更にその豊かさを際限なく求めていく、物欲の虜になるタイプ、一方、目で見える富の只中で、そのはかなさを知っていく、目で見える富、物質的な富が真の幸せを得るものでないことを知っていくタイプ。 
 イエス様と出会い、その救いにあずかった前回の説教の言葉を使えば「心の貧しさ」を持った人々の中にも、この世的には富んだ人々も多くいたのです。徴税人ザアカイも金持ちでした。僕の癒しを求めてきた百人隊長も、旧約聖書に出てくるダビデ王も。初代キリスト教会の中にはローマ帝国の高官もいました。無論、逆に奴隷の人々も多くいましたが。
更に、小鳥と話をしたと言われる、中世の修道士アッシジのフランシスコは、財産家のお坊ちゃんでした。彼らに共通していることは、目で見える富が決して幸いを与えるものでないことを知り、神様の前での心の貧しさを持っていたことです。
<「富」から「心の富」へ>
 目で見える富、それは必ずしもお金、土地、建物、貴金属というような肉眼で見える物質的富だけでなく、肉眼で見えない社会的地位、立場、学歴、名誉等もこの世で力のある富です。そのため、成金と呼ばれるお金持ちが、今度は慈善事業や寄付等をして、富だけでなく社会的地位を得ようとします。これも又、富を求めることです。
 前回の説教「心の貧しい者は幸いである」の場合と同じように、肉眼で見える物質的「富」は「心の富」へとつながっています。肉眼で見える物質的「富」だけでなく「心の富」も共に「貧しさ」「心の貧しさ」とは逆に、人を不幸にしていきます。「心の貧しい人々は幸いである」ことは逆に「心の富んでいる人々は不幸である」ことになるのです。

<ルカ18章の譬えから>
このことについて、イエス様はルカ18章で明解な譬えを持って示されます。(文頭参照)
 ここに出てくるファリサイ派の人は、ファリサイ(原語は区別されたの意)という言葉が示すように、俗人とは区別された正しい人間だと自負していました。彼は、目で見える所では、週に二度断食し、全収入の十分の一を献金して、極めて宗教的、信仰的で正しい人でした。そして、横にいる徴税人、彼からみれば伝統的な律法を守らず、ローマ帝国の手先となって民から重税を取り、私腹を肥やしている悪い人間を「見下し」「徴税人のような者でないことを感謝します」と言います。しかし、それはイエス様から見れば、神の前での心の貧しさ、心砕けた魂ではありませんでした。
 一方、徴税人は自分が民から嫌われ、人の前にも神の前にも正しいと胸を張って立つことが出来ないことを自覚し、「遠くに立って目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人の私を憐れんで下さい』と言いました。イエス様は「神様に義、つまり正しいとされたのは、この徴税人であってあのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と明確に誰が正しいか、何が真実かを示されます。幸いな「心の貧しい人」はこの徴税人であり、不幸な「心の富む人」はファリサイ派の人である、と言われるのです。
 前回と結びつけて考えることは、私たちがこの世で物質的、社会的に富んでいようが貧しかろうが、神様の前では常に貧しい者であるということです。イエス様がいつも大切にされているのは、神様の前での貧しさです。
<宗教と信仰とは違う>
 長年、牧師をしてきて考えることは、<宗教><信仰>とは一見同じように見えますが、その中身、本質は全く違う、ということです。この譬えから言うならば徴税人は信仰を持ち、ファリサイ派の人は宗教を持っていた。そして、イエス様は<宗教>を不幸とし、<信仰>を義、幸せとされたのです。
 ファリサイ人の問題点、 彼は断食、献金という宗教的行為を規定通り行いました。表面上は信仰的に正しい業に見えますが、その行為をする中でだんだん自分を高く上げ、傲慢になり、徴税人を審き、見下げた、つまり心の富む者となってしまった、神様、神様と祈りつつも自分を第一にし、神様より自分が価値判断の基準、つまり自分が神の座についてしまったのです。
 このように、宗教は神様第一という表面上の形は整っていても、神中心ではなく自分中心に陥り自分を高く上げてしまう危険をはらんでいます。二十世紀最大の神学者と言われるK・バルトは「宗教は不信仰である」と言った、と言われます。実に深い言葉です。
 本物の信仰は、自分中心でなく神中心であり、聖なる神様の前には自分は一人の罪人でしかない、神様の前に正しい者であると誇れる所はないという心の砕けた魂を持つ心の貧しい人にあります。本物の信仰は、求めて、深くなればなるほど、神様に近づけば近づくほど,自らは低くなります。つまり自分の小ささ、弱さ、不完全さ,不誠実さが分かり深い罪認識を持つのです。
<クリスチャンの危険性>
 私たちクリスチャンもこのファリサイ人のように自分を高く上げ、クリスチャン以外の人を見下げ、審いてしまう危険性をいつも持っています。あの徴税人の心の貧しさ「罪人の私を憐れんで下さい」との祈りの心を忘れないようにしたいと思います。<宗教>ではなく<信仰>を持ちたいと思います。教会の歴史の中で、偉人又聖人と言われた人々は、この徴税人と同じ心の貧しさを、自己の罪に対する深い意識を,神様の憐れみを乞う祈り心を持っていました。
 使徒パウロはローマの信徒への手紙7章24〜25節で 24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。・・・」 とイエス・キリストの十字架の罪の赦しの中に,自分を明け渡しています。
<心の貧しき人は対話の人>
 この神様の前における心の貧しさは,人と人との関係に対話を生み出します。自己を絶対化しないこと、つまり自分の考え、思いが必ずしも正しくない、客観的でないことの自覚は、他者の考え、思いを聞く姿勢、謙虚さを生みます。自分だけが正しいと自己義認している人は、自分と違った考え、思いを理解できず、自分の思いを相手に押しつけ、対話は成立しません。私たちが日常、いろんな人と話をしていて、何だか話が進まない、話が楽しくないという時は、相手か、自分かがこの心の貧しさを持っていない時であることが多くあります。
「自分はこれが良いと思っているが、あの人は違う。一体何が正しいのか?」そんな時「もし、イエス様だったらどう思われ、どう行動されるのだろう」と、「私の思い、あの人の思いもあるけど神様は何を求めておられるのだろう」と考え行動するのが信仰であり、神様を隣人をそして、実は自分をも愛して行く、対話と和解と平和の道ではないでしょうか。                          
                        (7月伝道礼拝説教から そのU)