「弱い時こそ強い」
コリントの信徒への手紙U12章1〜10

牧師 亀井 周二

1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

私たちが生きている現代の日本は、経済的にも、肉体的にも、精神的にも生きて行くのがとても厳しい時代です。年間の自殺者数が3万人を越え、交通事故の死者よりも多く、うつ病の人は100万人、と最近の新聞は伝えています。そのような中で、多くの人々は負け組でなく勝ち組になりたい、強くなりたいと望んでいます。
 今日は、新約聖書の中に出てくるパウロという一人の人を通して「強さ」について考えてみたいと思います。
私は、教会に行き始めた時、パウロという人は聖人と言われ、普通の人とは違った強い人、人間離れした鉄人のような人で、近寄りがたさを感じていました。しかし、パウロの書いた手紙を読んでいく内に、パウロは私たちと同じ弱さを持った一人の人間であることが分かり、親しみを感じるようになりました。彼はコリントの信徒への第二の手紙の中で、「自分の弱さを誇りましょう」「私は弱い時にこそ強い」と、不思議な言葉を語っています。
 普通、私たちは「強さ」を誇ります。しかし、パウロは「弱さを誇ろう」と逆のことを言い「弱い時こそ強い」と不思議なことを言うのです。聖書学者たちは、パウロは大きな病気を持っていた、と言います。てんかん、眼病、マラリア等、いろんな説がありますが、はっきりしません。パウロがその病について「とげ」とか「サタンの使い」と表現していることから想像すると、とてもつらい病であったことは確かです。彼は自分のためだけではなく、神様から与えられた尊い伝道者としての仕事にとっても大きなマイナスだ、と考えて病の回復を真剣にイエス・キリストに祈りました。
すると、主、つまりイエス様は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮されるのだ。(第2コリント12:10)」と語られるのです。
 イエス様からの答えは、彼が望んでいたような病気が治ること、苦しみからの救い、ではありませんでした。「私の恵みはあなたに十分である」それは、具体的には今のままでいい、つまり、あなたの身にあるとげ、肉体の病は治らないということに他ならないのです。これがもし、私たちであったらどうでしょうか。神様の助けを信じて、必死に祈り続けても、自分の願い通りにならなかった時、「こんなに祈ったのに良くならない、答えてくれない、やっぱり神様なんて当てにならない、所詮信仰なんてこんなもんだ、気休めだ!」そう思い、神様から、信仰から離れてしまいます。
 しかし、パウロはそのような受け止め方はしませんでした。自分は病が治ることを望んだ。病が治ることが神様から恵みを受け、祝福されている状態であると思った。しかし、神様は今のままであることが十分な恵みである、と言われる。パウロはここで、マイナスをプラスに受け止める視点を与えられたのです。自分の思いを越えた神様の思い、声を聞いたのです。
 パウロは、肉体のとげを持っていることによって、自分を誇ることが出来ずに、ただ神様を頼って生きる他はない、という謙虚さを持ち、高慢から解放されてゆきました。実は、このことが伝道者パウロにとって一番必要なことでした。
パウロが肉体のとげを持ち、一人の弱い人間としての苦しみを体験する、そのことによって、人間は神様に頼って生きる存在であることを知り、また同時に他者の苦しみを自分の苦しみとすることが出来る。この、「神様の前の謙虚さ」と「隣人に対する共感」を持つことが出来たことこそ、伝道者として一番大切な資質であり、心です。そのようなパウロに神様は力を与え、彼を強く、偉大な使徒として作り替えられました。彼の肉体のとげ、病は彼の絶望の理由とはならず、神様の恵みの働く場所となったのです。マイナスはプラスになったのです。
 私も約13年前、小腸ガンという消化器のガンの中でも珍しいガンを患いました。腫瘍は鶏の卵くらいの大きさがあって、後で、主治医から教えてもらったのですが、5年後の生存率は最初、50%以下と思っていたとのことでした。その時は私も、家族も死を意識しました。ガンと宣告されて帰宅したその日、私は妻の見ていない所で「今、自分が死んだら家族の生活は?」と不安の中で貯金通帳の残高を調べたりしました。そして最後に、イエス様に祈り、全てをイエス様にゆだねました。
 パウロのような劇的な体験ではないかもしれませんが、私もガンを患うことによって、頭や理屈ではなく、体験を通して神様を信じ、ゆだね、平安を与えられることの素晴らしさを知って、牧師としての大切な心を与えられたように思います。それは、自分の力で生きている、というよりも生かされている、生きていることを許されているという感謝の思いです。
他者の痛みや苦しみ、特に重い病を患っている人々の苦しみが以前より理解できるようになり、ガンの手術以後、教会員や親しい人が入院手術の時は、一番不安の中にある手術前日の夕方、短い時間病室を訪ね、手を取って心を一つにし、神様に全てをゆだねる祈りを共にすることなど、牧会に対する姿勢を変えられたように思います。ガンというマイナスは、牧師の私にとって、プラスであったと受け止めています。
人は自分の弱さ、苦しみを除かれて、神を忘れて奢り高ぶり他者を傷つけて生きるより、弱さ、苦しみを背負いながらも神に結ばれ、他者の苦しみを理解し共に励まし合って生きることの方がどれだけ幸せか、という真理を、パウロは神様に祈る中で知ったのです。それ以後、彼はフィリピの信徒への手紙で見られるように、苦しみに遭えば遭うほどキリストの愛の中で、深い喜びを見出していったのです。
ここで、星野富弘さんの詩をご紹介したいと思います。ご承知の方も多いと思いますが、星野さんは中学校の体育教師の時事故に遭い、首から下の自由を失って重い障害を持ち、絶望して自殺まで考えましたが、母親の献身的な看病、クリスチャンであった妻との出会い、聖書との出会いの中で、神様の愛と出会ってクリスチャンとなり、わずかに動く口に絵筆をくわえて詩画を描き始め、多くの人々に感動を与え、NHKテレビやマスコミでも取り上げられて全国で展覧会が開かれ、故郷群馬には美術館も建てられています。
彼は、四肢麻痺という悲惨な事故に遭わなかったら、ごく普通の中学校教師として生きたことでしょう。詩画を描くことも、信仰を持つことも、又苦しみの中にいる多くの人々に生きる勇気と励ましを与えることもなかったでしょう。彼は母の愛、妻の愛、そして神の愛の中で、肉体的マイナスをプラスに変えていきました。
「私は傷を持っている。
でも、その傷のところからあなたのやさしさがしみてくる。」
「喜びが集まったよりも
  悲しみが集まった方が、幸せに近いような気がする。
強い者が集まったよりも
  弱い者が集まった方が、真実に近いような気がする。
 幸せが集まったよりも
  不幸せが集まった方が、愛に近いような気がする。」
彼は、神様との出会いの中で、このような美しく真実な詩を歌い、自然で美しい花の画を描くことが出来たのです。
 本当に強い人、それは神様の前で自分の弱さを知った人です。本当に美しい人、それは神様の前で自分の醜さ、罪の深さを知った人です。
これが、イエス・キリストの福音の逆説の真理、パラドックスです。
 パウロのあの強さは、彼の弱さの中にあったのです。イエス・キリストへの信仰には、マイナスをプラスに変える力があるのです。
 私たち一人一人もそれぞれ弱さを持ち、その生活の中に、心の中に穴を持っています。私たちは、その弱さ、穴をなくそうとする、それも大切なことですが、いくら頑張っても穴をふさげないことも人生には多くあります。あのパウロのように、その弱さ、穴を通して神様のみ旨を見、み言葉を聞く者でありたいと思います。
 パウロに対してだけでなく私たち一人一人に対しても、イエス様は「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全にあらわれる。」と語りかけ、励ましておられるのです。

                      (野田教会トラクトより)