「豊かに実を結ぶ」
ヨハネによる福音書15110

牧師 亀井 周二

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

 イエス様は、当時の日常生活の中から、いろいろ譬えを語られました。10章の羊と羊飼いの譬えも、又マタイ等でぶどう園の譬えなども。
イスラエルの国、つまり今のパレスチナ地方では、オリーブと共にぶどうがよく栽培され、ぶど 今朝は、本年度主題聖句、ヨハネ福15章1節以下のぶどうの木の譬えからの説教を致します。
う酒も飲まれていました。しかし、日本の山梨などのぶどう園のように枝を横に広げたやり方ではなく、縦の棒に短く這わせる栽培方法をしています。これは、ヨーロッパやアメリカ、南米、オーストラリヤと同じ栽培方法です。
<この譬えの二面性(審きと励まし)>
 このぶどうの木は、何か自然の恵みの美しさ、豊かさを感じさせる譬えのように感じられますが、文の内容をしっかりと読むならば、かなり厳しい、審きの内容も表されています。
<旧約において>
  このぶどうの木の譬えは、イエス様だけではなく、実は旧約においてはイスラエルの民が、ぶどうの木に譬えられてたびたび語られています。
詩編80:9では「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。」と肯定的に語られますが、イスラエルの民は神の期待に反して、悪い実を結んで、野ブドウとなってしまいます。それは、偽りのぶどうの木です。
預言者イザヤは、ぶどう畑とぶどうの木の譬えを語って、父なる神があらゆる努力をして開墾したぶどう畑に育ったぶどうの実は全く期待はずれの野ブドウだったと語っています。(イザヤ書5:1〜2参照)この預言者の実を結ばない者に対する厳しさは、この15章のイエス様の譬えにおいても示されています。旧約の不信のイスラエルの、偽りのぶどうの木に対して、イエス様はここで「私は『ぶどうの木』」とは言わずにわざわざ「私は『まことのぶどうの木』」と言われて、『まこと』という言葉を入れておられます。
<剪定の厳しさ>
 2節「実を結ばない枝はみな父が取り除かれる。・・・」
 6節「私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられ・・・」
  このイエス様の譬えにおいても、プラスとマイナスの二面性、審きと救いの両面が語られます。問題は、良い実を結ぶかどうかであり、良い実を結ぶか結ばないかの決め手となるのは、つながり方です。
<つながり方について>
  イエス様は、「私につながっていなさい」4節、と言われます。ここで、私たちの問題について考えてみたいと思います。私たち「人」が、どこかに留まり、つながる、ということは、信頼とか愛ということを基礎にしています。信じ、愛していない所に私たちは留まっていることは出来ません。そこに、安心や安らぎはないからです。「私につながっていなさい」ということは、私を信じなさい、私を愛しなさい、と同じ意味を持ちます。このことを具体的に考えるために、ペテロという一人の人物を考えてみたいと思います。
<つながっておれなかったペテロの挫折>
  ペテロは、イエス様が十字架の苦しみを予告をされた時、「あなたのためなら命も捨てます」
(ヨハネ福13:37)と言いました。しかし、彼は十字架を前にしてイエス様を三度も「知らない」と言って裏切ってしまいます。「命も捨てます」との言葉は、ペテロは本心そう思ったのであって、口先だけの言葉ではなかったと思います。しかし十字架を前にした時、彼は明確にイエス様を知らない、と自らの意志でイエス様から離れたのです。
<私たちも同じ>
  私たちが洗礼を受けた時、心から感動を持って一生信仰の道に励もう、教会から離れず礼拝を大切にし、聖書を読み、祈りを持ってイエス様につながっていこうとします。しかし、人生の嵐、そして教会内でも起こる嵐、吹雪のために教会から離れてしまうことが多くあります。だから、イエス様は「つながっていなさい」と言われるのです。では、どんなに嵐が起こり風が吹こうとも、私たちが幹であるイエス様につながっているためには、どのようにすればよいのか、もう一度4節を見てみたいと思います。
「・・・私もあなた方につながっている。・・・」4節、イエス様ご自身が、私にしっかりつながっておられるからです。つまり、人間の側の不確実な不信仰を越えて、イエス様の確実さ、恵みがあるから、つながること、それに努力することが出来るのです。そのことを、ペテロはあのガリラヤ湖畔での復活のイエス様との出会いの中で知りました。(ヨハネ福20章)「私はつながっていようと思っていたのに、イエス様から離れてしまった。しかし、イエス様はそのような私をも見捨てず、切ってしまわれず、『私を愛するか』と問い『私の羊を飼いなさい』とつながり続けて下さった。だから、私もつながり続ける事が出来る。」と。ペテロは、もうこれからはいい加減な自分に頼るのではなく、イエス様の恵み、愛、選びの中に自分の基礎を見い出していこう、と決めたのです。このイエス様の無条件的な愛、ずっと枝を切り捨てずにつながっていて下さるから、私もつながっていることが出来るのです。
 長年、教会生活をしている人は、みな、この逆転の真理を知っています。私がつながっていられるのは、イエス様の方が、いつも、どんなことがあっても切り離さずつながっていて下さる、愛して共に歩んで下さる、そのことを知っているのです。私たち人間の側のいい加減さ、不確実さを越えて、イエス様の確かさが私たちをつなげて、栄養を、愛をいっぱい与えて下さるのです。
 「豊かに実を結ぶこと」こと、それは15節「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」を見れば明確なように、互いに愛し合うこと、それは父の掟、つまり神様の意志、み心なのです。
ところで、この15節の言葉と全く同じ表現が13章にも出ていたのです。ここでイエス様は愛すること、それは足を洗うことであると言われます。「ところで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネ福13:14)
しかし、私たちはイエス様の十字架から、み言葉と聖餐から離れてしまうと、足を洗うのではなく「何だ、お前の足は汚い」と審き合いが始まってバラバラになり、美味しい実など結べません。豊かな実とは、イエス・キリストの愛の実、赦し合いの実です。
 13章には洗足の出来事とそのことの意味、新しい掟、そして弟子たちの裏切りの予告とペテロの離反の予告が交互に書かれています。そのことと、このイエス様の4節の「私もあなた方につながっている」とは、密接に結びついています。イエス様の私たちとのつながり方が、この洗足の出来事によって示されているのです。それは、イエス様が私たちの足を洗う、その汚れ、失敗、罪を洗って下さる。(これが縦の交わり)そして、あなた方も互いに洗い合いなさい、つまり、赦し合いなさい、と言われているのです。イエス様の十字架によって、罪赦された者同士の赦し合い、足洗われた者同士の足の洗い合いこそ、キリストの愛の実であり、教会の交わりです。
<私を離れては何も出来ない>
  言い過ぎ、断定し過ぎではないか、イエス様とつながっていなくても少しは出来るのではないかと、考える人もいるでしょう。しかし、私たちの行為には絶えず自己中心性が伴い、他者を愛する、と言ってもそこには自分の条件、報い、計画があります。それが違っていたからユダも、弟子たちも、イエス様から離れていきました。ペテロも何か出来る、と思っていたのに何も出来なかったのです。15:5「私を離れては、あなた方は何も出来ない」13:8「もし、私があなたを洗わないなら、あなたは、私と何の関わりもないことになる」 この厳しい否定の背後にある、肯定を読まなければなりません。ペテロは、そのことを、十字架を前にしての挫折と復活のイエス様との出会い、そして再出発から知りました。
マザーテレサは「私たちだけでは何も出来ません。」と言い、また逆に「イエス様がいて下されば、何でも出来ます。」と言いました。この視点が、彼女に実をいっぱい実らせたのです。彼女の実は、インドのカルカッタの路上から世界に広がって行ったのです。