賛美の中で生きる-教会修養会より

                                            牧師 亀井 周二

詩篇 150篇

150:1 ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。
150:2 力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。
150:3 角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。
150:4 太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。
150:5 シンバルを鳴らし神を賛美せよ。シンバルを響かせて神を賛美せよ。
150:6 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。

  今日はマルコによる福音書から離れて、今回の修養会テーマ〈礼拝と音楽〉に合わせ、詩編150篇についてお話ししたいと思います。
詩編1篇が詩編全体の序言(プロローグ)であるとするなら、この150篇は正に結び(エピローグ)と言えるでしょう。この詩の特色はなんと言っても、「ハレルヤ」主をほめたたえよ、つまり神を賛美せよで始まり、ハレルヤで終わることです。おそらく、詩編を最終的に編集した人々は、その一番最後の所で主なる神を声高らかにほめたたえ、賛美する思いになったのでしょう。
この150編は詩編の中でも最も短い詩編の中に入ります。ハレルヤを入れても僅か6節です。1節から順に学んでいきましょう。
1節は、主なる神様への賛美がどこでなされるべきなのか、その場所について語っています。つまり、どこで、Whereということです。
まず、「聖所」があげられます。イスラエルはその波乱に満ちた歴史を一貫して共に一つの場所に集まり、主なる神を礼拝し、賛美することをやめませんでした。その場所はある時は聖所であり、ある時はエルサレムの神殿であり、また後の時代には会堂(シナゴーグ)といった具合に、彼らの歴史の移り変わりと共に様々に変化しました。
私たちクリスチャンの場合には、教会です。私たちは忙しくても、時には疲れていても、一週の始めの聖日ごとにそれぞれの属する教会に集まり、そこで心をこめて神様を礼拝し、一週間の歩みを始めます。教会こそ、私たちが神様を賛美する、まず最初の大切な所、拠点です。そのような場所を持っていることは、実はとても大きな恵みです。
この1節では、次に「大空の砦で」とあります。創世記1:6の「大空」と同じ語です。大空は、創造のみ手のあらわされた場所です。大空、朝の曙の虹色の変化、夕焼け、私は大好きです。
有名な詩編19:1には「天は神の栄光をもの語り、大空は御手の業をしめす」とあります。私たちは忙しい中、水平ばかり、人ばかりに目を留めないで、ふと行き詰まった時、天を仰ぎたいと思います。
次の2節は、神様をほめたたえる根拠、理由について語ります。つまり、何故、Whyについて語っています。
「力強い御業のゆえに」「大きな御力のゆえに」。イスラエルの民は旧約の時代から21世紀の今日に至るまで、シェマーといって、神様の救いの業、出エジプトの出来事を記した小さな皮の箱を頭と手につけ、代々忘れないように一日に二度祈ります。
 また、出エジプト記には十戒の中で、7日目に安息日を守る根拠として、神様の天地創造が示されています。 
 ところで、新約の時代に、イエス・キリストの福音に生きる私たちにとって「力強い御業、大きな御力」とは、何でしょうか。それは、イエス・キリストの十字架による罪からの救いと復活の死をも超える力、永遠の命です。それは第二の出エジプト、血族的神の民ではなく、霊による神の民の誕生です。ヨハネ伝3:16に「神はそのひとり子を賜った程にこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」とありますが、ここに、クリスチャンが何故、神様を賛美するのかの原点、根拠があるのです。礼拝も、賛美も、神様の愛、救いの業に対する応答、感謝です。
 礼拝の音楽と他の世俗の音楽とは違います。礼拝の音楽は、何よりも神様をほめたたえ、賛美するためにあります。神様に向かって歌い、音楽を奏でます。だから、技術も無論大切ですが、それ以上に神様を賛美する心を祈りつつ、そこに聖霊が下ることを祈りつつ、信仰告白をするものです。讃美歌は神様への応答、信仰告白です。
 3〜5節を学びましょう。
ここで気づくのは、実に様々な楽器の名前が挙げられていることです。ここでは、礼拝に於いてどのような手段、また方法をもって礼拝を賛美するのか、そのことが歌われていると言えるでしょう。つまり、如何に、Howということになります。
 ここで教会音楽、礼拝の持ち方、形式のことを考えさせられます。3〜5節には当時の楽器がいっぱい出てきます。そして、その楽器から考えますと、ずい分賑やかで、リズミカルです。特に打楽器の存在が大きく、踊りながら賛美、礼拝しています。今日のアフロアメリカ系の人々の合衆国での又、アフリカの教会での礼拝を彷彿とさせます。
 教会は、新約における初代教会の東方教会と西方教会、ロシア及びギリシャ教会、カトリック教会、プロテスタント教会、更にプロテスタントの様々な教派、一言で言えば多様です。日本のプロテスタント、日本キリスト教団においても伴奏する楽器は、リードオルガンや電子オルガン、パイプオルガンもあれば、ピアノでしている所もあるし、ヒムプレイヤーでしている所もあり、実に色々です。
 このHow、如何にという問題、礼拝を如何に、どのような方法で守るか、順序、構成、楽器、讃美歌の選び方は、結局、個々の教会が一番神様を賛美しやすいものを求めていくことになります。今回の修養会の目的もそこにあるのです。
 ただ、大切なのは、先ほど言いましたように、Howの方に、方法、形式の方に目を奪われて、Why、目的、根拠を忘れてはならないということです。
 神様の大いなる業、天地創造と救い、そしてイエス・キリストにおける十字架と復活、罪の赦し、永遠の生命をイエス様と神様を仰ぎつつ、祈りつつ、どのような礼拝の形式か、どのような賛美の仕方が良いのか、問うていきます。
 如何に、の前に何故を問うことが大切で、それをしないと私たちもイエス様から批判されたパリサイ人の律法主義、形式主義に陥ってしまいます。
 オルガンでなければいけない、とか第一編でなければ、逆に讃美歌21でなければ、と形式を絶対化する必要はありません。それぞれに価値があるのです。これらは全て、どこまでも相対的なものであって、より良いということはありますが、歴史と共に変わっていくものです。絶対的、不変のものはその目的、神様の業への応答、感謝です。
 なぜ礼拝し、賛美するのかという目的、、根拠を見失ったり、曖昧になった時には、どんなに立派な礼拝堂で、プロの演奏する立派で高価なパイプオルガンがあり、しっかりした聖歌隊が揃っていたとしても、それは真の礼拝、賛美にはなりません。
 少し前に、私たちはイエス様の律法理解と、パリサイ人、律法学者たちの形式的律法主義について学びました。本質的には同じ事です。律法学者たちは何故、安息日を、食物規定を守るのかという目的、Whyを忘れて、どのように、Howという方法、形式ばかり考えていたのです。律法の中心は、あの二つの愛の戒め、神様と隣人への愛です。その中心以外の他の様々な律法は相対化されるのです。
 何故、礼拝し賛美するのか、それは神様の大いなる天地創造と救いの業を賛美するためです。
 6節「息のあるものは、こぞって主を賛美せよ。」
今まで、どこでWhere、なぜWhy、いかにHow、について語られてきました。そして、この最後の6節です。だれWhoということが述べられています。
この地球上で、神様を賛美する最もふさわしい形、状態は〈息ある、全てのものが、こぞって〉義務ではなく、心からの喜びを持って神様を賛美することです。
〈息ある全てのもの〉という言葉から私たちは、私たちクリスチャンの、又教会の宣教、伝道への責任と使命を感じます。今は〈息ある少しの者しか〉神様を賛美していない現状です。全ての人々を愛し、罪を赦すために命を捨てられたイエス様に対し、又天地創造の神様、私たち一人一人に命を与えられた神様に対して申し訳ない思いです。
一人でも多くの人々が神様を賛美することは、私たちの喜びをより大きくするものです。
私たちは一人でも多くの人たちと賛美するために、伝道していきましょう。それが、神様、イエス様に対する感謝、応答です。
 息あるものは人であり、動物は入らない、まして息をしない植物は、と聖書学者は理解するようです。しかし、あえて私は神様の創られた動物も植物も含んでいいのではと思います。かつて、富山の教会では礼拝でみんなが讃美歌を歌うと、鳥たちもさえずったものです。植物も動物も、それぞれの仕方で息をし、私たちとは違う仕方で神様を賛美しているように私には思えてなりません。
 以上、150編を順に学んできました。最初にも言いましたが、この詩編150篇は、ハレルヤで始まりハレルヤで終わります。そこには深い意味があるように思います。つまり、「ハレルヤ」こそは、人間が口で出来る最後にして最高の言葉だ、ということです。
 私たち一人一人にはそれぞれの人生があります。終わりがあります。しかし、私たちは私たちの前途に何があろうとも、主を賛美する喜びはなくなりません。イエス・キリストにおける神様、愛と救いの業を信じる者にとって、最後の、ただ一つの、そして最高の言葉は「ハレルヤ」です。ハレルヤ!