幼な子のように」

                                     牧師 亀井 周二

マルコによる福音書 10章13〜16節

13
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14
しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
15
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
16
そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

〈大人もこどもも平等〉
人々はこども達をイエス様の所に連れて来ました。それは「イエスに触れて」祝福してもらうためでした。しかし「弟子たちはこの人々を叱った」。多分弟子たちは、イエス様をわずらわせたくないという人間的配慮から彼らを叱り、止めようとしたのでしょう。しかし、このような人間的配慮がしばしば、不信仰な行為となります。つまり、こども達とイエス様との間に壁を作ってしまったのです。今日の箇所の前で、イエス様は離婚問題で、当時男性と比べて差別され、低く見られていた女性の立場を引き上げ、男女平等の考えを示されました。今回は、こども達の人格を認め、神の前には男も女も、大人もこどもも平等であることを示されます

〈こどものように〉
 そしてイエス様は「はっきり言っておく。こどものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(15節)と言われました。「こどものように神の国を受け入れる」とはどのような意味でしょうか。
 よく、人は「こどもは罪がない。天使だ。」と言います。確かに28年間、幼稚園の園長をして思うことは、こどもの可愛らしさです。特に三歳児のこどもたちの姿は無条件的に可愛く、思わず頬ずりしたくなるほどです。では、こどもには全く罪がないと言えるでしょうか。長年、こどもを見ていて感じるのは、こどもの可愛らしさと同時に、こどもの残酷さ、正しく表現するならば配慮のなさです。時として、こどもは思ったことを正直にズバッと言葉や行動に表します。相手がどう思い、感じるかは考えません。こどもは自己中心的であり、未分化、未成熟です。自己中心から解放され、他者のことを考え、行動できるようになることが成長であり、成熟することです。イエス様がマリヤの胎に宿り、一人の人間、赤子として誕生されたのは、こどもも大人も等しく神様の救いにあずかる存在であることを示しています。
 では何故、イエス様は「こどものようにならなければ」、神の国に入れない、つまり信仰を持つことができない、と言われるのでしょうか。

〈こどものすばらしさ〉
 それは、こどもの持つ小ささ、低さです。こどもは無意識的に、本能的に自分の小ささ、低さを知っています。親がいないと自分は生きていけないことを肌で知っています。だから、何か困ったことや不安なことがあると、「ママ!パパ!」と泣き叫ぶのです。更に、こどもは人目を気にせず計算もしません。まわりに人がいようがいまいが、困った時、不安になった時、「ママ!」と泣き叫びます。親が社長であろうが、ホームレスであろうが社会的地位、立場などこどもには関係ありません。
 また、こどもは計算したり、報いを求めたりしません。その後、どうなるか、何か利益があるか、報いがあるかなどと考えません。その時、その時を精一杯楽しく遊び、生きています。明日、お母さんは自分にご飯を作ってくれるかと、心配することもありません。こどもの生活は、全て親に対する依存、信頼の上に成り立っています。このような、こどもの持つ、親に対する絶対的な依存性、信頼性の中に、神様に対する人の姿、信仰をの姿勢を見なさい、とイエス様は言われるのです。
 イエス様ご自身も、十字架直前の苦しみ、悲しみの中で、ゲッセマネの園で「アバ、」と神に様に祈られました。それは「お父様」というかしこまった言葉ではなく「お父ちゃん」に近い言葉でした。こどものようになりなさい、と言われたイエス様ご自身がこどものように父なる神様を求められたのです。

〈こどもらしさを捨てるのか?〉
 ところで、私たちは、大人になることはこどもでなくなること、と考えます。それは正しいのですが、こどもらしさを失うこととは違います。早くこどもらしさを捨てることが大人になることのように考えるのは、間違いです。ある精神科医は「こどもらしさを早く失ったこども程、思春期以降,精神的障害や病を持つ可能性が多い」と言いました。
 ある時、テレビで見た100才の現役の画家の目は、こどものような好奇心いっぱいの目をしていました。高齢になっても、その世界で一流の現役の人々は、こどものような目と心を持っているように思えます。そこには、こどものような探求心、好奇心、情熱があります。その世界の一番大切な真理を求め続ける純粋さを持ち続けています。人の目を気にしない,計算や報いを求めない心が,生き方があります。信仰の世界も同じではないでしょうか。

〈ザアカイについて〉
 聖書の中に、大人になってもこどもらしさを失わなかった人がいます。ザアカイです。彼は、徴税人で金持ちでした。民衆は、ローマ帝国の手先となって貧しい民から税を取る徴税人を嫌っていました。だから、彼は孤独で、その孤独の深さから、彼はイエス様を求めました。彼がイエス様を見ようとした時、その背の低さが障害となりました。人々はわざと人垣を高くし、彼にイエス様が見えないようにしました。しかし、ザアカイはイエス様見たさに、まるでこどものように、近くのいちじく桑の木に登ってイエス様を見ようとしました。彼は、イエス様を求めることに純粋であり、人目も、世間体も、社会的立場も気にせずこどもになったのです。その心にイエス様は、即応答されます。「ザアカイ急いで降りてきなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。」(ルカ19章1〜10節)

〈信仰における単純さ〉
 高校3年の時に洗礼を受けて40年、伝道者になって33年、信仰者として、伝道者として不完全ではあっても、それなりに経験と知識を得てきて思うことは、信仰の世界は、本物を求めて行けば行く程その姿勢、生き方は単純になっていくように思えます。  そのことをイエス様は「こどものように」という言葉で表されたのではないかと思うのです。
 信仰にとって一番大切なことは、大人もこどもも同じであるように思います。それは「神様ごめんなさい。」と「神様ありがとう。」という二つの姿勢です。もう少し大人の表現を使えば「悔い改め」と「感謝」です。信仰について、教理また聖書についての知識をどんなに増しても、この「こどものような」姿勢、視点を失ったら、それは信仰ではないのです。イエス様を大人の目で見てしまい、十字架につけてしまったユダヤ教のエリートであったパリサイ人、律法学者、祭司たちがそうでした。彼らの大人の目から見れば、イエス様はナザレの大工の息子で無学なおかしな男でした。中途半端な知識、経験がない分、大人よりこどもの方が素直に「ごめんなさい」と「ありがとう」が言えるかもしれません。
 神の御心にそった知識は、増せば増す程、純粋さ、単純さを失わず、かえって深まって赤ん坊のように神様に対する信頼を深めて行くものです。
 私たちは、この大切な二つのもの「悔い改め」と「感謝」「神様ごめんなさい」と「神様ありがとう」を大切にしながら生きてゆきたいと願っています。
 ペテロも、パウロも、アウグスチヌスも、ルターもそしてマザーテレサも、歴史上本物の信仰を求めた人は皆、神様の前で自分の小ささを知り、父なる神なしでは生きられないことを告白しました。「ごめんなさい」「ありがとう」とこどものような姿、生き方をしてきました。そして、先にも言いましたように、イエス様自身が「アバ(お父ちゃん)」と父なる神様に全てをゆだね、生き、そして神様と私たちへの愛を貫いて十字架で死なれたのです。そのイエス様を、父なる神様は復活させられたのです。

 このイエス様の十字架こそ「ごめんなさい」と「ありがとう」の二つの言葉をつなげる接点、罪の赦しであり、愛なのです

                                        (亀井 周二牧師)